リーダーは「究極的には個人主義者」

Presidentに続いて今週の東洋経済もリーダーシップ特集。変化の大きい時代に追い討ちをかけるように震災が起こり、危機を乗り切るためのリーダーシップに大きな期待が寄せられているように思う。
しかし、一方で思うのだが、リーダーはこうあるべき、こうあってほしい、と期待したり、それが満たされないからといって批判したり失望したりするのは簡単だが、リーダーシップを発揮する、リーダーを務めるのは並大抵のことではないと痛感する。自分がそのような立場に立って初めて、こうしたよくある批判の無責任さを感じられる。

もちろん、自分がいいリーダーになれない、未熟なリーダーから成長できないことを正当化しようということではない。
ただ、このような時代にリーダーが求められるほどに、現実にはそうした人材が育つ土壌や仕組みが企業に備わっていないことを感じる。
昨日までリーダーとしての仕事をしたことがない、訓練も受けていない人が、出世して立場が変わっただけでリーダーシップを発揮できるか、とちょっと考えてみれば、分かることだと思う。

リーダーシップの源泉は熱意や信念だと思う。どんなことがあってもこれだけは成し遂げる、目標に向かって決して諦めることなく突き進むことのできる本気の心構えだと思う。
そこに周囲は共感し、行動を共にしようとするフォロワーが生まれる。
そうした熱意や信念は、ある日リーダーになった時に作れるものではない。ずっと前から持ち続け、強化され、行動が伴うものでなければならない。

「そうか、君は課長になったのか」の著者、元東レの佐々木常夫氏のインタビューが東洋経済に掲載されていた。
「リーダーとは周りの人を元気にする人のことだ。「いい仕事がしたい」「いい職場にしたい」と、自分が楽しんで仕事ができる人。そのためには、部下にも楽しんでもらえるように尽くす。(中略)世のため、人のためにと自分の幸せを作り上げる行動がみんなの幸せを呼び、彼らは自分を愛してくれ、尊敬もしてくれる。となると、リーダーとは、究極的には個人主義者なのかもしれない」

「だからこそ、政治家や社長だけがリーダーというわけではない。上司でも部下でも、ベテランでも新人でもかまわない。どんなところにもリーダーはいるし、同時に誰もがリーダーになれるのだ。」

「リーダーは究極的には個人主義者」というのはなるほど、と思った。

立場が人をリーダーにするのではない。
何かをしたい、という思いがあって、人を巻き込み、(究極的には自分のためにではあるが)人のために何かを楽しんでできればそれはリーダーの行動なのだと思う。

自分が幸せになりたい、と思って起こす行動が、回りの幸せと合致するということがリーダーシップの特徴なのだろう。そうでないとフォロワーがついてこない。

問題は何かをしたい、という思いがあるか、人のために何かを喜んでやれるかだ。
義務感ではリーダーにはなれないということなのだと思う。
とりあえずは今の職場で、自分が楽しんで職場をよくしようと本気で思い、行動できるか。
自分の思いがどれだけ強いか、その思いに従って自分が変われるか。それを楽しめるか。
僕はリーダーにならなければという思いに押しつぶされそうだったかもしれない。もう少し、気持ちに余裕を持って周囲を楽しませるゆとりがないと自分が潰れてしまう。

もう一度、自分に何ができるか、また自分に向き合いたいと思う。